【映像クリエイターの不定期エッセイ】byひらさわとも

   
最新2007年6月〜2007年2月〜2006年12月〜2006年9月〜2006年6月〜
映像クリエイターとしての立場から、ひらさわともが書くエッセイです。
映像制作に関する話題を中心に、様々なトピックについて不定期で書き綴っています。
2008年6月9日:
比較にならない
 非常に久々のエッセイコーナー更新。
 僕はyoutube等の動画投稿系のサイトは、確認したい過去の映像があった場合ピンポイントで検索して観るような使い方だったのだけれど、最近心を開いて(?)関係ない動画も覗いてみた。特に、ユーザーがオリジナルで制作してアップしたような作品を。

 そうしたら、玉石混交ではあるのだが、たまに本当に素晴らしい「玉」があるので驚く。
 プロ顔負け、というとなんとなく最終的にプロが勝っているような感じだが、そういうことですらなく、プロ完全敗北、みたいな。完封負け、みたいな。

 プロでない人というのは、当然日頃映像や音楽を作っているわけではないのだろう。それがある日ある瞬間、何か作ろうと思い立ってしまうのだから、そのテンションを減衰させずに作品化できてしまった場合、やっぱり名作になるのだろう。
 勿論プロも、他の人より更に強く思い立ってプロになったのだと思うけれど、思い立ったのは普通、平均すれば、かなり昔だ。
 ミュージシャンでも、もしかしてファーストアルバムが一番良かったりするかもしれないが、アマチュア作品はある意味常にファーストアルバムだから、ちょっとやそっとのテンションではない。

 ただ、テンションが高いだけだと、身内には感動的でも客観的にはそうでもないものが出来上がったりすることも多い。要するに、他人の結婚式のスピーチみたいな感じだ。そこに客観性を与えるためにはテクニックが必要で、それはプロの専売特許だと昔から言われてきた。
 でも今は、特にコンピュータベースの創作なら、独学でも我流でもテクニックは身に付く。だから本当の意味でプロもアマチュアもない、ということになってしまう。今はそういう時代なのだと思う。

 だとすれば、プロが少々減衰気味のモチベーションで、かつ安くないギャラと引き換えに作ったものと、アマチュアが無料で作り報酬も利権もなくやりとりされているもの、二つ並んだ場合どっちに説得力があるのだろう。
 それは、例えば「愛している」という言葉を有料で言ってもらう場合と無料で言われた場合を比較するようなものだ。ただ僕は、お金を取りたかったわけではなく、要するに当時は、プロのほうが制作環境が有利だったからプロになったのだ。
 でも勿論それは旧時代の事情であって、今はアマチュアに負けないように心して取り組む以外にない。
 
 
2008年1月14日:
昨年、今年
 昨年も、いろいろと作品をつくることができ仕事は順調だった。作品をつくる際の方法が固まってきているので、制作の各プロセスで混乱するようなことが殆どなかった。

 でもそれは、今やっていることを続ける限りにおいてのスムーズさに過ぎない、という面がある。例えば時代劇をずっと撮っている監督がいるとして、スタジオには江戸の町のセットがあり、各種の衣装や刀などの道具が用意されていて、どんな時代劇のエピソードでも即座に撮れる、という状況に近い。
 その状況で、できれば時代劇以外も撮りたい、といった空気の読めない発言をするのは勇気がいるのだけれど、自分に対しそれを言わなければいけないという感覚が非常に強かった。

 時代劇以外を撮るためには、江戸のセットの中で工夫を凝らしてもダメで、制作の基盤自体を改良しなければいけない。これは、単純に機材を変えるとかソフトを変えるとか人員を増やすといったことではない。本当に様々なレベルでの作業が必要なので一概には言えないのだが、少なくともこの個人サイトを作ったのはその一環だ。

 昨年の10月までは屋号名義のサイトしかなかったのだが、それに加え個人として発信することで、外部から今までとは違った種類の申し出があるかもしれない。こちらからも、違った種類の提案をできるかもしれない。
 そういった狙いが形になるのは少し先かもしれないが、今そのためにいろいろ下ごしらえをしている段階だ。

 あとはもっと具体的なところで、こういったエッセイ以外に、短くて軽い一発ネタ的発信をしたかったので「daily memo」を書き始めてみた。ハッキリ言ってネタは100年分くらいあるのだが、文章化する(特に短く縮める)作業がコンディションが良くないとできないので、そのせいで多少当たり外れがあるかもしれない。

 なんにせよ今年も、見ていて飽きない活動をしたいと思いますので、 よろしくお付き合いのほど。
 
 
2007年11月3日:
tomo-hirasawa.comのID
 tomo-hirasawa.comとして最初のエッセイである。
 ※前回までのエッセイは、他のサイトに書いていた(今は公開終了)文章の転載です。

 このサイトはまだコンテンツが少なく、映像作品も現状で3作しか載せていない。初めて読む人向けに書くと僕の本業はいろいろな映像作品を作ることで、結構な期間やってきているので、作った本数は多い。でも、その中でこの3作は自己評価としてはベストだ。別に自慢ではなく単純に当社比の問題だ。

 ただそういう思い込みは多少は他者にも伝わるようで、その意味で訪れた人にとっても、「ハズレ」を見させられる可能性が低いとは言えるだろう。今後も、ベストまではいかなくてもそれに近いものを載せたいし、それに近いものを作りたい。このサイトは、端的に言ってそういう方針で作った。

 こういう文を、社会に出ていない若い人が読んだらもしかして不思議かもしれない。何故わざわざベストでないものまで作り、更にベストを選り分けるような面倒なことをするのか、と。
 理由のひとつは、自分の力が及ばずベストでないものが出来上がってしまうからだ。これは、比較的想像しやすいかもしれない。

 もうひとつの理由は、何がベストかという価値観が多様なわりに、映像は根本的に多様な人からお金を集めないと制作できないジャンルだからだ。これは、小説や絵画にはない宿命的な面倒臭さで、 その面倒臭さをそのまま反映して作品やサイトを作ると、往々にして多様過ぎてポイントがボケたものになる。

 ポイントをボケさせないためには、独裁的な1人の判断でベストとそれ以外を振り分けるしかなく、僕が独裁者役でそれをやっているのがこのサイトだ(なんか、はっきりした説明だけど嫌な感じだなぁ…)。
 ちなみに独裁のわりに他者の共感を得る率が高いと、その作品は成功と呼ばれる。上に書いた、思い込みが他者に伝わるとはそういう意味だ。

 後は、作品だけ置いてあってもあまりにインターフェース的になんなので、多少噛み砕く意味で作品解説とか、こういうエッセイコーナーもある。
 それに加えて、よせばいいのにトップページの「daily memo」は毎日更新だ。この「daily memo」は当たり外れもあるけれど平均すれば、サビしかない曲のようなもので密度は高いらしい、とか、さり気なく書いておこう。

 そんなわけで、これからもよろしく。
 
 
2007年10月16日:
好きを仕事に
 好きを仕事に、という表現は本当によく聞くけれど、僕が学生の頃は少なくとも慣用句ではなかった。
 ただ、自分自身はとてもその希望が強かったのは事実で、その上で今考えるのは、好きを仕事に、ということの実体は何だろう、ということだ。

 仕事にする前から、何度も書いているが学生時代から、サークルで色々映像作品は作っており充分楽しかった。
 その当時考えたのは、この楽しさをやめずに続けるには仕事にするしかない、ということだった。そして、仕事がだんだん進展するに従って、このまま行けばまた新しい種類の楽しさが増えるのでは、ということも考えた。考えたというか、そういうキラキラした成功のイメージはあらゆるメディアから発信されており、それに多少は影響された。

 それで、まあありがちなのだが、前者は確かに言えるが後者のイメージに実体はない、というのが結論だ。つまり、好きを仕事にすることで得られる報酬は、実はその前から手元にあったものだった。
 通常失われてしまうことが多いのに失わなくて済むのがスペシャルなのだ、という見方はあるかもしれない。でもそのスペシャルさは、よくあるキラキラしたイメージとは違うものだ。

 キラキラしていないから悪い、ということではなく、そういう地道な作品づくりに常に着地できるからこそ、他の相対的なことにあまり振り回されずに済むのだと言える。

 世の中にミュージシャン志望や役者志望の人は数え切れないほどいるが、その中に稀に、音楽を作らないと、或いは演技をしないと生きていけない、というタイプの人がいる。そういう人はこの世に存在すること自体がある程度大変なのだが、その大変さの対価は、上に書いたような意味で既に支払われているように思われる。
 そしてその副賞として、ついでになんとなくプロにもなれてしまいましたが、みたいなパターンが多いように、少なくとも僕からは見える。

 そういった点が、例えば事業で成功したいという夢とは異質なところで、こういうエッセイを読むと字面としては分かるかもしれないが、実感できるか否かが人によって分かれるところでもあるだろう。好きを仕事に、と表面的にいくら言っても本当のコツを伝達し得ない道理だ。
 勿論僕は、上に書いたような大変系の人が大好きというか、そういう人達とコラボすることで執念のお裾分けをもらって生きているようなものなのだけれど。
 
 
2007年9月19日:
CG
  さて今回は、ちょっと専門的な話を。ハリウッド映画はお金をかけていて凄い、と言われる。CG技術も、最近は日本も頑張っているとはいえ、やはり敵わないという印象がある。一体何が違うのか。

 例えば、ちょっと昔の映画だがトム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」はナチュラルなCG技術で有名だ。その中の、戦争で両脚の膝から下を失くしたダン少尉が、床に手をついて体の向きを変える、という場面。
 映じるゲイリー・シニーズには勿論脚があるので、CGで消しこむことになる。これは、1コマ1コマ絵を描くような面倒な作業だ。

 その面倒さに取り組むだけの時間や人件費が日本にはないから、その点ハリウッドは凄い、というような言い方もよくある。間違ってはいないのだけれど、それだけならばお金で解決できそうな気がする。
 一般的に何かが凄くても素敵でも、それは結局お金の違いなのだ、という見方はよくあるけれど、あまり真実を突いてないことが多い。

 先ほどの場面だと、ハリウッドのCGアーティストは脚を消した上で、ダメ押しとして、脚があればぶつかってしまう場所に家具を合成したのである。(超ハイクオリティーなイラストで解説してみました。)


 床の上に静止している家具を合成するのは、技術的にはとても簡単だ。でも心理的な効果は絶大で、たぶんこの段階で「ハリウッドは凄い」というレベルになるのだけれど、その凄さの本質は、やはり脚の消しこみではない。

 じゃあ何が本質かというと、一義的には勿論、CGアーティストが家具合成を思いついたことだ。でもそれは、そういったCGの範囲を超えたアドリブ的な提案ができ、またそれが承認されるような雰囲気がないと実を結ばないことで、つまりそういった雰囲気を維持できている人の連携に、とても価値があるわけである。これがどれだけ難しいことか、職業的な制作現場を知っている人には分かると思う。

 人の連携や雰囲気というのは、勿論単純にお金を出せば輸入できるものではない。極論すれば、「ディレクターがADをどつく」みたいなことがお約束になっているような国では、無理だという言い方だってできる。
 ただ、最近の若い世代はあまりどつかないと思うので、一層世代交代が進めば、そういった根本的な意味でもハリウッドに太刀打ちできるかもしれない。

 こう書くとなにかとても難しそうだけれど、要するに「ピリピリしないで楽しく作ろう」みたいなことなのだけれどね。
illustration:a.sugiyama
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