論理的であること

ふと数えたら今8プロジェクトくらい同時進行になっていました。当然忙しくはあるのですが本質的にストレスな案件がなく、本当に恵まれているなと思います。とはいえ勿論、世の中の誰と組んで何を作っても問題が発生しないというのはさすがにあり得ないので、やはり仕事相手を選ぶ際のフィルターがお互い有効に作用した結果なのではないかと思います。

今回はそのフィルターについて書こうと思うのですが、クライアントが有名かどうか、クライアントの映像発注経験が豊富かどうか等はあまり重要ではありません。後者について補足すると、映像制作に本当に詳しければ自分で作れますので、つまり全てのクライアントは多かれ少なかれ詳しくないのです。

では何が重要な条件かといえば、それはお互いに論理的であることです。つまり、映像制作に詳しくない部分を論理的な対話で補えるかどうかが全てだと僕は考えています。

作品づくりというと、カッコよさとかセンスといったモヤモヤした問題を扱う、という印象があるかもしれません。しかしその問題には正解がありません。白が好きか黒が好きかというのは好みなので、最終的には誰かの好みを信頼して決めるといった方法になりがちです。しかし、そのような正解がない問題とある問題を混同せずに、両者をそれぞれ的確に扱えるのならその方法は非常に論理的と言えます。

例えば、これは映像ではなく写真の話ですが、昨年コラボしたシンガーソングライターの如月まぁやさんはめちゃくちゃ論理的なのですよ。彼女は線維筋痛症と闘う患者さんでもあるのですが、少し前に、

タグ「ドクターに言われた衝撃的な言葉」が流行ってから私も何か投稿しようと、今まで診てもらった数えきれない程のドクターを思い出してた🤔
数々思い付いたけど、そのどれもが私が好きだと言える先生たちのお言葉だった。
通いたくなるお医者さんの条件に「ユーモア」が追加された💡

…とツイートされていました。最後の結論は多くの人が「私はやっぱりユーモアのあるお医者さんに通いたい」のように書くところですが、彼女の文は厳密さがまるで違います。そしてこのくらいの厳密さがないと多人数での制作は成り立ちにくいと僕は思っています。例えばこれが映画のキャスティングの話だとして、この言い方でないと「ユーモアだけあるヤブ医者」を排除できないからです。

逆に、充分論理的で厳密なやりとりができるのなら、白が好きか黒が好きかといった違いすら問題でなくなる可能性もあります。話し合いの結果白でもあり黒でもあるような繊細な縞模様を作れるかもしれないし、そのお陰で色の好みすら変わるかもしれません。そもそもコラボとは相手の影響で自分が多少でも変わることを期待して行うものだからです。そのような素敵でエモーショナルな変化を生み出すには、論理性というカッチリした基盤が必要だ、ということなのです。

突然ですが、いじめ問題について

僕は独身で子どももいないのですが、そういう年代ではあるので、子育てに関する話を聞く機会は多いです。そこで意外だったのは、のび太も彼をいじめるジャイアンも全体として微笑ましい、といった見方や、そのようなちょっとしたトラブルは子どもの成長にとって有効だ、といった見方があることです。
勿論悪気はないと思うのですが、そのような見方が結果として問題を生むというか、率直に言えばいじめの被害者を更に追い詰める可能性は高いように思います。当ブログは全くそういうテーマでやっている訳ではないのですが、かつていじめの被害者だった身としては他人事と思えないので、今回は例外的にこの問題について書こうと思います。

まず踏まえておきたいのは、なにがしかの嫌がらせを受けている子がいたとして、それをその子がどう感じているのか、当人にとってそれはいじめなのか、どの程度の深刻さなのか、といったことを他人が推測するのは非常に難しい、ということです。
ある子にとっては殆どダメージがないような些細な嫌がらせでも、ある子にとっては文字通り死ぬ程辛い可能性はあります。勿論当人が本心から「特に気にしていない」と言っているなら心配ないかもしれません。しかし、いじめに遭うような子はその辺の話題を避けがちでしょうし、事態の悪化を恐れて報告できないことや、加害者を庇うような嘘を付くこともあり得えます。なので余程ハッキリした根拠が無い限り、些細な嫌がらせやじゃれあいに見える関係性をいじめでないと断定するのは危険、ということになります。勿論、傍目にも明らかにいじめに見えるものはその時点で緊急事態なのは言うまでもありません。

では、些細な嫌がらせなのか、いじめなのか分からない関係性をもし発見した場合、どのように対処すべきなのでしょう。少なくとも、加害者を被害者から引き離せばそれ以上の状況の悪化は避けられます。
この対処方法は、実際にはその関係性がいじめでなかった場合、つまり単なるじゃれあいだった場合にもその機会を奪うので、その点は問題かもしれません。また、確かにある種のいじめではあったけれど、放っておけば被害者が加害者に反撃するなり自分の言い分を伝えるなりして自己解決できたかもしれない、その可能性を潰してしまう、という面もあるでしょう。特に後者の「自己解決」パターンはある意味貴重な人生経験かもしれないし、子どもが成長する機会でもあるのかもしれません。最初に書いた、のび太も彼をいじめるジャイアンも全体として微笑ましい、という主張をする人はこのような成長物語を思い浮かべているケースが多い気がします。

しかし逆に言えば、加害者を引き離すことで失われる可能性があるのは、じゃれあいの機会や人生経験くらいです。それは正直、全く大した損失ではありません。何に較べて大した損失ではないかというと、勿論それは被害者が死ぬことです。いじめは最悪の場合被害者を自殺にまで追い詰めます。そして、それを周囲が予見できていれば当然対処したでしょうから、殆どのケースで周囲は事態がそこまで深刻とは思っていなかった、ということになります。つまり、じゃれあいとか「貴重な人生経験」パターンかと思っていたらある日突然被害者が死ぬということです。

このように書いていても「そんな大袈裟な」とか「それは極論だ」といった感じ方をする人がいるのは予想できます。しかし今問題にしているのはこれを大袈裟だと思う、その鈍感さ自体なので致し方ありません。もし本当に鈍感でなく、克服できないレベルのいじめとそれ以外の関係性を100%の精度で区別でき、自分の子どもは後者のケースだと断定できるのなら、敢えて子どもに「貴重な人生経験」をさせるのも良いかもしれません。でも勿論100%の精度などあり得ないし、あり得ない以上、子どもにとっての深刻な被害を周囲が過小評価してしまうリスクを消すことはできません。

それに、たまたまいじめの度合いが被害者にとって克服可能なレベルで、なんとかそれを克服したとしても、それが本当に「貴重な人生経験」なのでしょうか。「貴重な人生経験」とはそこまでつまらない意味合いしか持たない概念なのでしょうか。
世界にはもっと遥かにマシな、見るべきものや体験すべきこと、出会うべき他者が存在しているはずです。どうして、いじめ加害者のような暴力的な人間と接点を持つことを重視しなくてはならないのでしょう。

僕は「ドラえもん」は大好きですが、「ドラえもん」はマンガであるが故に、のび太とジャイアンの問題の深刻さを見えなくしている面があるように思います。実際のいじめにはマンガ的な絵柄のほのぼの感はなく、和やかなBGMもなく、のび太を助けるドラえもんもいません。勿論現実の世界には映画版も存在しないのでジャイアンが善人になることもありません。もし現実にあのようないじめがあればのび太は死ぬ危険性があります。ドラえもんに代わりのび太を助けられるのは周囲の大人しかいないことを、自覚する必要があるのではないでしょうか。

レゴ de 可変翼飛行機【改造版】

先日レゴで制作した可変翼飛行機ですが、実は重大な欠点があったので改造してみました。

今回最大の改造ポイントは翼の付け根部分です。旧型では1マス×1マスのオレンジブロックを無理矢理回転軸として使用していましたが、当然構造上脆くなります。これを新型では可動パーツに置き換え。実は小学生時代のオリジナル版ではこの可動パーツを使用していましたが、手元になかったので妥協していたのです。しかしやはり気になるので新たにパーツを取り寄せてみました。
さらに円柱ユニットがその上をスライドする滑らかなパーツも、機体本体と色を統一することでより洗練された見栄えに。

翼から延びる「挟みユニット」の立体交差も互い違いになるように改良。円柱ユニットの色も本体と統一し、ハイセンスな色彩設計を実現。

パイロットの帽子は、ビビットな赤とシックなブルーをご用意。その日の気分で自由なコーディネートが可能に。

改造版を実際に動かすとこんな感じです。静かで滑らかな可動を実現することで、上質でラグジュアリーなレゴ体験があなたのものに。

という訳であなたも可変翼飛行機、作ってみませんか。

レゴ de 可変翼飛行機

最近、自分の周りでレゴブロックが流行っている気がします。小さなお子さんに与えるのは良いと思いますが、いい歳をした大人までもがレゴに夢中なのは正直ちょっと…笑。大人にとっても難しい、といった主張も見かけますが微笑ましい気すらしますね~。僕自身小学校1~2年くらいまではレゴをやっていましたが、勿論子どもの遊びです。当時やっていたことは成人した今なら目を瞑っていてもできます。その証拠に、当時のレゴを片手間に再現してみようと思います。

■モチーフは可変翼飛行機

今回再現しようとしているのは、僕が小学校低学年時に作った可変翼飛行機です。機体に対する翼の角度が変わるのですが、ポイントは左右の翼が連動していることです。つまり片翼の角度を変えると、もう片翼も自動でそれと同じ角度になる機構を作ります。



で、結論から先にお見せしますがこれが再現に成功した「可変翼飛行機by小学校低学年の俺」です。両翼が連動して動くことが写真からお分かり頂けるかと思います。勿論簡単に再現できました。これを書いている今かなり疲れているのですがそれは連日の忘年会とかのせいです。レゴは全く関係ありません。

■両翼連動機構の仕組み
両翼から通称「挟みユニット」が伸びています。その「挟みユニット」が挟むのは機体中央の「円柱ユニット」で、この「円柱ユニット」は機体の前後方向にスライドします。つまり片翼を動かすと円柱ユニットがスライドし、その円柱ユニットに追従する形でもう片翼も動きます。

これが、翼、挟みユニット、円柱ユニットだけを取り出した状態です。正直なかなか良く考えられている気もしますがこんなの今だって思いつけますよ、余裕ですよ。

■実装する上での課題

挟みユニットは構造上立体的に交差します。それをレゴという解像度の低い素材で、かつ一定の高さの範囲内で実現するにはこのような工夫が必要となります。

円柱ユニットも、ただの円柱だと挟みユニットから力が加わった時点で斜めに倒れてしまいます。それを防ぐためにはこのようなゲタを履かせる必要があります。

ゲタがスムーズにスライドする為には機体側のレール部分に滑らかなパーツを配する必要があります。

■総括とお詫び

上記の課題解決策は今回思いついたものではありません。実際に手を動かして作っていると、課題があったことと同時にその解決策も思い出すので、それに従って組んだだけです。要するに小学生の自分に助言されながら作ったのですがそれでも消耗しました。
すいません、目を瞑りながらの再現は無理でした。あと僕はぼっちなので連日忘年会なんてありませんでした。分析の結果疲れの原因はレゴでしたのでお詫びして訂正します。レゴやばい。あと当時の自分に較べての劣化がやばい。創意工夫脳を鍛えねば。皆さん、レゴやりましょうレゴ。

15年前

年の瀬ですね。今年はMENSAに入ったりHELLIQに入ったり、その関連でFaceBookをはじめたり、挙句にInstagramにドハマリしたり、私生活はなかなか変化に富んだ1年でした。勿論ぼっち充、ネト充の枠組み内での話なんだけどね!

まあそれはいいとして、仕事はお陰さまで好調でした。それは勿論周りの皆様あってのことで、なんだかいつも非常に好意的に協力してくださる感じで、幾ら感謝しても足りません。しかしその一方、自分に関しては反省点もあります。

というのも実は先日、ちょっと古いデータが必要になり昔のHDDを漁っていたのです。そうしたら15年(以上?)前の自分の画像が出てきました。当時手がけていた某CMの撮影風景です。この画像の中の自分は初々しく見えるかもしれませんが、実はあり得ないくらい小生意気で自信過剰だったことを僕は知っています。なんせ本人なので。
正直クライアントの言うことをそこまで尊重しないこともあったし、周りを振り回し気味でもあったと思います。それでもなんでも仕事を続けてこられたのは、そんな欠点を補って余りある過剰な熱量があったからかも知れません。そしてその過剰さと、社会的な聞き分けの良さを両立させることは当時の自分には難しく、結果的に前者しか選べなかったのでしょう。

勿論、その仕事ぶりはトータルとしてアカンのですが、それとは若干違う次元の話として、仕事をつつがなく進行させる為の努力と物事を進歩させる為の努力は異質である、ということがあります。前者は、例えば事故を起こさない車のようなものです。それに対し後者はレーシングカーで、レーシングカーには当然前者の枠を超えた何かが必要でしょう。

つつがないと言っても、今どきの関係者は皆優秀でバランス感覚も働くので、安全重視と言いいつつも随所にチャレンジングだったりはします。それでもやはり全体としてはつつがない訳で、これは言うなればレーシングカーに若干似ている一般車を作っているようなものです。そしてそういう車は市場に溢れており、これはクリエイティブ的には行き詰まっている状態に他なりません。ガチのレーシングカーはレースのたびに改良を施しながらギリギリを狙うので、当然事故も起こるでしょう。そこまでして進歩させたがっている状態は傍から見ればクレイジーかもしれません。

端的にいうと、15年前の自分の写真から感じたのはそのクレイジーさです。もしかしたらそういう印象はないかもしれませんが、本人の言うことなので間違いありません笑。ここ最近の仕事への自己評価はレーシングカーに若干似ている一般車に他なりません。勿論そういう仕事ぶりが必要な局面もあるというか、むしろそういう局面がほぼ全てかもしれません。しかし、それだけでいいの?と、15年前のクレイジーだった自分が語りかけてくるのです。