小室哲哉方式

突然ですが、PVでもCMでも、ちゃんと考えて作ろうとすれば結局作品単体ではなくブランディングの問題になってしまいます。なので、映像職人としてミニマムな部分だけを頼まれるよりも全体を見て考えろと言われる方が自分としては自然です。最近ではそういった全体の相談をして頂けることも多く楽しいです。

ただ、ブランディングを専門的に考えている人たちは主に会議室にいる印象なのですよね。自分の場合、常に会議室にいたい訳ではなく最終的には自分で撮ったりCGを作ったりもしたいタイプです。全体を見たいと上に書きましたが、職人が嫌なわけではなく全体を見た上で職人もしたいのです。

なんて我儘なんだと思いますが、これを自分では勝手に「90年代の小室哲哉方式」と呼んでいます。つまりプロデューサーでありながらも演奏するしコーラスも歌うという…。僕が学生の頃がまさに小室氏全盛期だったのですが、その頃からそういう形で仕事をしたいと思っていました。

そのやり方を通す為にはマニアックな部分と分かりやすく説明する部分の両方が必要ですが、それをまさに実践していたのも小室哲哉です。勿論小室氏と僕では仕事のスケールもクオリティも全然違うのですが、だからこそいまだにインスパイアされるのです。

嫌なものは嫌

夏休みが終わる時期は子どもの自殺が多いそうな。その気持ちはメチャクチャ分かります。特に小学校はいじめもあったし1ミリも楽しくありませんでした。卒業式が終わって校門を出る瞬間「やっぱり意味なかった」と思ったのをハッキリ覚えています。

僕はそういう嫌なものには付き合わないことにして今に至ります。そのこと自体は別に自慢にはなりませんが、そういう生き方もあるというのは参考情報としてお知らせしておきます。

そして少なくとも、死ぬほど嫌なことなら無理に付き合わなくていいのは間違いありません。何かを克服してそれが為になる、というのは苦手の中に好きが何パーセントかは入っている対象に関してです。自殺したくなるほど学校が嫌なら行かないほうがいいに決まっているし、自分の感覚を大事にすべきです。

そして補足するならば、死ぬほどでなくても、少しだけ嫌な場合でもその感覚はとても大事です(対象を避けるかどうかは別にして)。社会人の多くは本質的には伝えたいことが何もありません。それは元からなかったのではなく、自分の感覚をどこかで無視してしまった結果なのではないかと僕は思っています。

仕事相手の条件

仕事相手から「ひらさわさんって映像作るの好きなんですか!?」と訊かれることがあります。僕にとってそれは大前提なのでその場の反応としては大抵笑ってしまいます。しかしだからと言って、その前提を仕事相手と共有しなければダメだとは思いません。むしろ逆です。

好きなことを仕事にするというのは勿論素敵なことですが、そのような気持ちの問題を実務に持ち込むと、何故か好きと理不尽を交換するような取引が生まれがちなのですよね。つまり、好きなことなら無理な条件でもやれ/やろうみたいなことです。そんな世の中にあって仕事相手にその認識がないというのは、つまり仕事が真っ当に進む可能性が高いことを意味します。

またそもそも、映像制作に携わる全ての人に仕事を好きになるよう強制することはできません。好きかどうかと優秀であるかどうかは別の評価軸です。という訳で、僕が仕事相手に求める条件はフェアでロジカルであるということだけです。
仕事が好きでかつ優秀というのが一番かもしれませんが、もし充分フェアでロジカルに振る舞えるのなら、その人は仕事が好きで優秀な人と多くの場合区別がつかないように思います。

実写と多様化

なんだか最近撮影案件が続いていて、流石にいい意味でルーティン化してくるというか、撮影前にあまり緊張しなくなってきました笑。ただ、僕は仕事を始めて20年以上です。なぜ今更撮影慣れを自覚するのか、逆に言えば今までしていなかったのかを考えてみたのですが、それは実写に比重を置いてこなかったからだと気づきました。

僕が実写に対して熱を持つようになったのはここ数年で、インスタを始めたのと同時期からです。それ以前の僕の感覚は、実写で何をやってもハリウッドに勝てない、というものでした。勿論それを言うならCGでも勝てないのですが、CGやアニメーションには変化球的な抜け道が結構あるので、勝てはしないまでも負けないような方向性を見つけやすいのです。


これがその時期の作品です。実写パート(人物)は多分1時間くらいで撮り終わっていると思います笑。実写パートはいち素材に過ぎない、という考え方です。この時期はこのように実写がごく僅かに入るか、全く入らないアニメーション作品がほとんどでした。

それがなぜ今は実写大好きになってしまったかというと、世の中にも自分にもパラダイムシフトが起こったからです。実写でもハリウッドに勝てるようになった訳ではありません。そもそもハリウッドに勝つという価値観自体が陳腐化したのです。これは、今多くのミュージシャンが別に紅白を目指していないのと同じです。これはなにもハリウッドや紅白自体の価値が下がった、ということではありせん。つまり、多様化したのです。

多様化の中で輝きを増したのは一人ひとりの日常です。インスタユーザーがあれだけ自撮りをアップしてそれが素敵に見えるのは、賛否両論あれどやはり画期的なことに思えます。
そういう価値観に於いては、遠くまで行かなくても無理せず行ける範囲の場所で、トップスターでなくても会える範囲の人を大切に撮れば最高の映像になるはずです。皆がそういう風に考えると、ソフトやハードの進歩とは別の次元でノウハウやら皆の美意識やらが進化してコンテンツのレベルが上がります。今のインスタやハリウッド以外の映像業界は端的に言ってそういう状況だと僕は思っています。


これは最近作ったPVですが、出演者は皆一般の方です。一般の方で問題ないどころか、タレントを使うと逆にこういう良さは出ないかもしれません。今はそういう価値観が共有されているので、すんなりこういうPVを作ることができます。ただ、5年前もこういう状況だったかといえば、そうでもなかったように思うのです。そしてもちろん、今のほうがいろいろな意味で豊かになっています。

論理的であること

ふと数えたら今8プロジェクトくらい同時進行になっていました。当然忙しくはあるのですが本質的にストレスな案件がなく、本当に恵まれているなと思います。とはいえ勿論、世の中の誰と組んで何を作っても問題が発生しないというのはさすがにあり得ないので、やはり仕事相手を選ぶ際のフィルターがお互い有効に作用した結果なのではないかと思います。

今回はそのフィルターについて書こうと思うのですが、クライアントが有名かどうか、クライアントの映像発注経験が豊富かどうか等はあまり重要ではありません。後者について補足すると、映像制作に本当に詳しければ自分で作れますので、つまり全てのクライアントは多かれ少なかれ詳しくないのです。

では何が重要な条件かといえば、それはお互いに論理的であることです。つまり、映像制作に詳しくない部分を論理的な対話で補えるかどうかが全てだと僕は考えています。

作品づくりというと、カッコよさとかセンスといったモヤモヤした問題を扱う、という印象があるかもしれません。しかしその問題には正解がありません。白が好きか黒が好きかというのは好みなので、最終的には誰かの好みを信頼して決めるといった方法になりがちです。しかし、そのような正解がない問題とある問題を混同せずに、両者をそれぞれ的確に扱えるのならその方法は非常に論理的と言えます。

例えば、これは映像ではなく写真の話ですが、昨年コラボしたシンガーソングライターの如月まぁやさんはめちゃくちゃ論理的なのですよ。彼女は線維筋痛症と闘う患者さんでもあるのですが、少し前に、

タグ「ドクターに言われた衝撃的な言葉」が流行ってから私も何か投稿しようと、今まで診てもらった数えきれない程のドクターを思い出してた🤔
数々思い付いたけど、そのどれもが私が好きだと言える先生たちのお言葉だった。
通いたくなるお医者さんの条件に「ユーモア」が追加された💡

…とツイートされていました。最後の結論は多くの人が「私はやっぱりユーモアのあるお医者さんに通いたい」のように書くところですが、彼女の文は厳密さがまるで違います。そしてこのくらいの厳密さがないと多人数での制作は成り立ちにくいと僕は思っています。例えばこれが映画のキャスティングの話だとして、この言い方でないと「ユーモアだけあるヤブ医者」を排除できないからです。

逆に、充分論理的で厳密なやりとりができるのなら、白が好きか黒が好きかといった違いすら問題でなくなる可能性もあります。話し合いの結果白でもあり黒でもあるような繊細な縞模様を作れるかもしれないし、そのお陰で色の好みすら変わるかもしれません。そもそもコラボとは相手の影響で自分が多少でも変わることを期待して行うものだからです。そのような素敵でエモーショナルな変化を生み出すには、論理性というカッチリした基盤が必要だ、ということなのです。