Get chance and luck

インスタ投稿用のポートレート撮影でモデルさんに会った際や、仕事作品の現場で同業の方に会った際の雑談が人生相談に発展することが多いです。表現、創作活動を仕事として長続きさせ発展させるにはどうすればよいのだろう、ということを皆さん聞きたいのですよね。

それに対しての僕の答えはシンプルで、社会的な需要と自分のやりたいことを対立構造として捉えないことです。もしバンドをやっていてドラマ主題歌のオファーが来たとしたら、自分のバンドらしくもありそのドラマらしくもある曲を書けば良いのです。

最近新作映画も公開されたようですが「シティーハンター」というお題で「Get Wild」を納品されたら制作側はどれ程嬉しいか、ということです。しかも「Get Wild」はめちゃくちゃ(その曲を書いた)小室哲哉っぽくもあるのです。

本当に仕事のコツはこれ以外ないのですが、これはつまりアーティストエゴと協調性を両立させるということです。その両方とも大事ですが敢えて言えばより重要なのは前者です。アーティストエゴ全開で「いっちょやらかしてやれ」と思っていなければ、「シティーハンター」に合っていなくもない無難で特徴のない曲を納品してしまう可能性があるからです。

そんなことを言ってもそもそもオファーすらないんですけど、という段階の方はとにかく作品を作ることです。何をおいても重要なのは作品のクオリティであって、SNSの更新頻度やコネでは絶対にありません。その上であとはタフさを発揮して運に恵まれてくれとしか言えません。文字通り「Get Wild」です。あの時点での、ブレイク前の小室哲哉がそう感じていたからあの曲があるのです。

理解と線引き


前回の続き。

新社会人に対しての「仕事をする以上理不尽な扱いにも耐えねば」といった助言をよく見かけます。僕は基本的にそれには反対で、あまり無理をする必要はないと思います。ただ、理不尽でないものを誤解して辞めてしまうのは勿体無いですよね。で、見えている範囲が少ない人、即ち新社会人や若手ほどそのような誤解をしやすい気がするのでそのことについて。

例えば自分がボートに乗っていて、後から強引に乗ってくる人がいてギュウギュウ詰めになったら理不尽だと感じるでしょう。でもそれが沈没しつつあるタイタニックから脱出する、数に限りのある救命ボートでの出来事だと知れば大抵の人は率先して詰めるはずです。

このように視野を広げると消えてしまう一見理不尽なことは多いです。良くある営業と現場の対立とか、大きな企業の発注担当者の無理難題といった問題は大抵これに当てはまる気がします。

ちなみに視野が広がるほど複合的で微妙な判断になります。簡単に言えば1人だけを見るなら「お前は悪人だ許せねえ」みたいなことがあり得なくはないけれど、100人を視野に入れてその全員が悪人ということはまずないので「許せねえ」みたいな極端な感情は生まれにくくなります。前回、藤子不二雄Aのマンガで勤め人が無表情に描かれていると書いたけれど、多くの場合無表情(に見える表情)にはそういう背景があるので非人間的ということでもないのです、実は。


しかし視野を広げるのも程度問題ではあります。例えば悪意を持って周囲に迷惑をかけるような人ですら、その人の生い立ちにまで視野を広げれば性格が歪んでしまった原因を理解できるかもしれません。それを言えば殺人犯を理解することだって特に難しくないでしょう。

ただ殺人犯を理解した上で自分が殺されたら元も子もないので大抵の場合どこかで線を引くことになります。殺人犯なら分かりやすいですが実際の問題はもっと微妙なことが多いでしょう。

自分が微妙に嫌だと感じるその問題は視野を広げることで分解可能なことなのか、或いは分解可能だとしてもそれに付き合う必要はないと判断するのか、その匙加減は自分次第です。難しい判断ですが、ただそもそもそのように考える姿勢を持つことは、やみくもに理不尽に耐えようとすることよりはだいぶ良いと思います。その線引きをある程度シビアにして、それでもその線の内側に入るような優秀な皆様に相手をしてもらえるよう自分を磨かねば、と考えることはわりと有益な気がします。

存在価値


毎年この時期になると話題になる「明日は日曜日そしてまた明後日も…」というマンガがあります。新社会人である主人公の坊一郎は引っ込み思案な性格が災いして入社初日から会社に行くことができません。それで結局引きこもってしまう、というシビアな内容なのですが、僕は本質的には坊一郎側なので彼を責める気にはなれません。むしろ作者の藤子不二雄Aが、問題なく会社に行けている人達を物凄く無表情に描いているのが印象的でした。坊一郎の両親は表情豊かといえば豊かなのですがあれはあれで病的なので、結局本当に人間らしく描かれているのは坊一郎だけです。

世の中で上手くやろうと思ったら無表情になるか、両親のように無神経さを前提にした元気を身につけるか、途中登場する同級生のような底の知れない切れ者キャラになるしかないという、物凄く皮肉な構造がこの作品にはあります。坊一郎のように人間的では生きていけない、と。

でもそうでしょうか?この作品にとって一番必要な人材は勿論主人公です。つまり藤子不二雄Aが一番こき使い笑、作品に人間味を与え読者の情感を喚起する仕事をしているのは坊一郎です。坊一郎の価値を認めるか認めないかは視点の問題に過ぎません。別の言い方をすれば、坊一郎を必要としている人はあのおかしな両親以外にもいるはずであり、もしすぐにはいないように思えても坊一郎には誇りを持って生きてほしいと僕は勝手に感情移入して思いました。人間的過ぎて生きていけないような心を持っているからこそ、坊一郎は生きていけるのです。

自己目的的

前回ご紹介した即興動画ですが、最後に何か文字が出ないと落ち着かないのでインスタアカウントのCMということにしました。一見本末転倒なのですが、成立感、完成度という意味ではこの順番で考えるのが一番上手く行く気がします。

ということはある意味それが本来の順番で、つまり映像作品は自己目的的に存在しこそすれ、他の何かを伝える為に存在しているのではない、ということになります。そう見えてもそれは後付けです。これは小説でも写真でも映画でも何でも同じです。オケから作ってそこから想起される歌詞を当てれば必ず合う、みたいな話に少し似ています。

では広告代理店には存在価値がないかというとそうではありません。自己目的的なアプローチが最適である以上現場はそっちに傾くので、商品とか訴求内容の都合を踏まえそこを補正する役割の方がいることは大事かと思います。CMソングなら商品名は入れなきゃね、みたいなことです!

完成させないで

前回に続き宇多田ヒカルネタ。「光」という2002年の曲の歌詞に「完成させないで、もっと良くして、ワンシーンずつ撮っていけばいいから」という一節があるのだけれど、ああこんなこと言われたら惚れざるを得ないなと、当時思ったものでした(実際彼女はその後MV監督と結婚したし)。やっぱり彼女はものすごーく、ものすごーくクレバーだと思うのですよね。お皿洗いは僕のほうが上手いけど。